2008年06月07日(土)   <<BACK>>

行法

 幾百千の行法によっても、開くことができない扉がある。その扉とは「自我」である。
 この自我という扉は自分を観察することによってのみ、開くことができる。
 行法により、一時の忘我を得、少し扉が開くことがあるだろう。しかし、それが過ぎると、いつの間にか自分は扉の外にいるのだ。そして、扉の内にいた経験だけが記憶として頭の中にとどまる。
「私はこういう経験をしたのだ」という。
 そして、その時と同じ経験をしようと行に打ち込む。しかし、頭の記憶を思い出したり、辿ろうとすればするほど、再び扉の内に入ることは一層むつかしくなる。なぜなら、そこに「とらわれ」があるからだ。
 あそこに行こうとしているのに行けない。ほとんどの人は、自分の足に「とらわれ」という鎖がついているのさえ、気がつかない。また、見ようともしない。

この写真は5月11日夕方、母親が入院している病院に行くとて、坂道をゆっくり上って行くときに撮ったものである。西方の空である。この時の上空は余程、気流が乱れていたのであろう。東方を除く雲の様相は、全く無秩序に見えた、まるで二つの勢力がせめぎあう「天空の戦い」のようでもあった。
先月のダイアリに載せるつもりでいたが、翌12日に四川大地震が起きたので、しばらく、この時撮った一連の写真を見る気がしなかった。
再び見てその時を思いだすと、そこには混沌はなく「冴え」があった。物事は全て明瞭この上もない。混沌なりしは私たちの心である。

 


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